朝ドラ「あさが来た」は幕末、明治期の女性実業家である広岡浅子さんの生涯を描いたドラマです。
「あさが来た」の物語は大変好調のようで、始まって既に半分を経過して、これから迎えるクライマックスがますます気になるところ。
この記事では改めて主人公・広岡浅子さんの生涯を夫・広岡信五郎との絶妙な夫婦関係も交えながらご紹介したいと思います。
ドラマのネタバレ的な要素も含まれますのでご注意ください。
広岡浅子の生涯とは?
広岡 浅子(ひろおか・あさこ)さんは、1849年10月18日~1919年(大正8年)まで生きた方で、男女格差が存在した幕末~明治時代に活躍されました。
加島銀行や大同生命の設立に参画し、日本初となる女子大学の設立にも尽力した凄い方です。
彼女にはまさに「女傑」という表現がぴったり。
現代風に言うと、
といったところでしょうか。
広岡浅子(旧姓・三井あさ)さんは、現在の京都市の富豪・三井高益さんの三女として生まれ、幼い頃より和歌や書道、茶道を学ばされながら育ちますが、本人は四書五経の素読などの学問に強い興味を抱いていました。
ところが、
という厳しい家の慣習から読書を禁じられ、
と両親に反抗した幼少期を送ったそうです。
この、女性の学問が軽んじられた環境で育ったことが、後の浅子さんの人生を大きく左右することになります。
17歳になると、大阪の富豪・加島屋の次男である広岡信五郎さんと結婚。
実は当時のしきたりで、2歳の時には2人の結婚が既に決まっていたそうです。
【許嫁】ってやつですね。
勝手なイメージですが、そういうシキタリがある家庭ってことは、やはり裕福な家庭だったのでしょうね。
ちなみに、広岡信五郎さんは浅子さんより8歳年上でした。
気になる結婚生活はどうだったかというと、夫や家のお世話の合間を縫って、
そうです。
一見大変そうに見えますが、元々学問に興味のあった浅子さんにとってはさぞ楽しかったことでしょう。
なんせ、それまで
にいましたからね。
独学だったとしても、学べるという環境は水を得た魚のように嬉しかったのではないでしょうか?
しかし!
嫁いで間もなくの1867年11月に大政奉還が起こり、総額900万両(現代の4500億円相当)の「大名貸し」分が返済されないという苦境に陥り、広岡家は大ピンチを迎えます。
そんな家業が傾きかけてる状況にあるにも関わらず、生まれながらのボンボンである夫・信五郎さんは
「金儲けは好かん」
と三味線などにうつつを抜かすばかりでした。
そんな夫の代わりに、このピンチを救うべく立ち上がったのが浅子さんです。
浅子さんは何と、諸藩の蔵屋敷に自ら出向いて少しでも返済するよう厳しく取り立てたとのこと。
普通だったら、家のピンチに関わらず遊び呆けている夫に対し浅子さんが愛想を尽かしてもおかしくない状況に思えます。
ところが実は夫・信五郎さんは温厚な性格の人格者で包容力があり、妻に活躍させたいと思っての行動であったと言われています。
実際のドラマでは、その辺を玉木さんがほぼイメージ通りに好演されていますよね。
見てて何か理想の関係というか、羨ましく映ります。
実際に浅子さんとは
ようです。
ケンカするほど何とやら…です。
さて、気になる加島屋のその後ですが、浅子さんは、加島屋の当主である信五郎さんの弟・広岡久右衛門正秋さん、夫の信五郎さんと共に加島屋の立直しに尽力していくことになります。
そして、1884年(明治17年)には福岡県飯塚市にあった、筑前潤野(うれしの)炭鉱を買収し経営に携わるなど、お家の立て直し以上の業務にどんどん首を突っ込んでいくことに…
何でも、護身用のピストルを常備しながら、炭鉱で働く坑夫らと寝起きを共にしたそうです。
その「肝っ玉ぶり」は尋常ではありませんでした。
浅子さんは、この潤野炭鉱の買収に限らず、誰も手を出さないような無謀に思える事業にも積極果敢に乗り出し加島屋を大きくしていきました。
明治維新の際には、新政府に援助もしていたようです。
そして…
1888年(明治21年)には加島銀行を設立します。
この加島銀行は後に近代的な金融企業に発展し、大阪の有力な財閥となった広岡財閥の中核となります。(ただし、加島銀行はその後昭和恐慌により廃業)
さらに、加島銀行設立から13年後の1901年(明治34年)には、自分の幼少期の経験もあって、女子の教育と地位向上を目指して日本女子大学校(現 日本女子大学)を設立。
この際には、実家の三井家も目白台の土地を寄付するなどで協力したそうです。
その後もまだまだ勢いは止まらず、1902年(明治35年)には大同生命を創業し、明治の代表的な女性実業家として歴史にその名を連ねることになりました。
ところで、広岡浅子さんは、こうした事業家としての活動する際に
というペンネームを名乗っていました。
と聞いて、おや?と思う方もいらっしゃるでしょう。
これは「七転び八起き」より2回も多いのですが、浅子さんの座右の銘から来ています。
浅子さん自身の生涯が転んでは何度でも起き上がっていくという精神を貫いたものだったからです。
そんな精神の強さと、男勝りで豪胆な性格が事業家としての天賦の才を生み出したのでしょうね。
物事の先を読む力が尋常ではなかったことは、その偉業の数々が物語っています。
夫の信五郎は浅子の最高の理解者
一方で、その夫・信五郎さんも、有名企業の要職を務めました。
主なところで言うと、
- 大阪株式会社取引所(現・大阪取引所)の取締役
- 尼崎紡績(現・ユニチカ)の初代社長
- 大阪運河取締役
などなど。
ユニチカなんて今も存続してますから改めて信五郎さんの凄さがわかりますね。
そして、まだ女性が社会に出るのは異例だったため、矢面に自分が立って、世間の風当たりを受け止めていたと思われます。
実質的には妻の浅子さんにその経営は前面的に任せて、サポートに徹していたようです。
だからこそ、浅子さんも思い切って才能を発揮できたんでしょうね。
そんな信五郎さんを見て、周りからは妻によく従う夫として有名だったとのことです。
妻と夫で役割は逆転していますが
でした。
そしてそこには、8歳も年の差があるせいもあって、信五郎さんからして見れば、
という親のような感覚があったのだと思います。
広岡浅子さんの晩年は社会貢献に専念
さて、浅子さんのその後ですが、夫が亡くなった後(1904年)、事業を娘婿である広岡恵三さんに譲って、自らは社会貢献に専念します。
日露戦争が起こった際には、愛国婦人会の中心的な役割を果たしました。
そして浅子さん60歳の時、胸部に腫瘍が発見される(乳がん)のですが、手術が成功し見事に病魔に打ち克つことになります。
浅子さんはここでも凄まじい生命力を発揮しますが、この手術で思うことがあったのか、1911年(明治44年)に宮川経輝さんという方よりキリスト教の受洗を受けました。
そして、これより晩年まで、御殿場にある別荘で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰し、後進の指導とキリスト教の布教に励むこととなります。
最期は1919年(大正8年)、東京で腎臓炎により他界。
享年69歳でした。
ちなみに、浅子さんは最期、遺言は残さなかったと言われます。
浅子さん曰く
「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」
と日頃から語っていたからなんだそうです。
名言と呼べる深い言葉ですよね。
「広岡浅子の生涯」まとめ
以上、駆け足ですが広岡浅子さんの生涯についてご紹介してきました。
今回、広岡浅子さんの生涯についていろいろ調べてみて、浅子さんの人となりがよくわかったので、今後の「あさが来た」で
- 浅子さんの生涯がどう表現されていくのか?
- ドラマ内でどう成長していくのか?
という楽しみが倍増した気がします。
朝ドラでは、広岡浅子さんを「今井はつ」という名前で波瑠さんが、広岡信五郎さんは「白岡新次郎」という名前で玉木宏さんが演じています。
波留さん玉木さんの夫婦のコンビが実際の広岡夫妻のイメージと凄くマッチしていて自然とドラマに引き込まれます。
今回の朝ドラのキャスティングは大成功だったと言えるのではないでしょうか。
これから残り約2ヶ月間、今回調べた知識を元に、まだまだ「あさが来た」をじっくりと楽しみたいと思います。
今回の朝ドラ「あさが来た」では主人公・広岡浅子さんを演じる波瑠さんと共に、広岡浅子さんの腹違いの姉である三井春さん(ドラマでは今井はつ)を演じる宮崎あおいさんがダブルヒロインの1人として注目を浴びました。 […]