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真田信繁(幸村)の生涯は?戦国最後の名将が愛されるワケとは?

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佳境を迎えているNHK大河ドラマ「真田丸」

 

毎週どっぷり楽しませてもらってますが、関ヶ原の戦いをあっさりと描くなど色々賛否両論に評価されてますね。

個人的にもちょっとあっけない感じはしたのですが、実際に真田家が参加したわけではないので致し方ないのかなぁ~と思っています。

 

真田が主役なので、あくまでも上田合戦の方がメインですからね。

 

しかし、その第二次上田合戦も、もう少し徳川方の苦戦振りを取り上げて欲しかったんですが、その物足りなかった分は信繁の本当の見せ場である大阪の陣で取り返して欲しいです!

 

真田丸のクライマックスになるであろう

『真田丸攻防戦+家康本陣への突撃』

その戦いぶりに期待したいと思います。

 

ところで、真田幸村の名前で有名な信繁ですが、その生涯の大半は実はほぼ無名のまま過ごたという事実をご存知でしょうか?

 

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信繁が全国的に注目され始めたのは、実は彼の晩年とも言える「大坂冬の陣」からです。

個人的なイメージですが、大阪の陣での活躍があまりに凄かったが故に、信繁が没した後も強大な敵に果敢に立ち向かった戦国最後の名将として英雄のように語り継がれたため、この活躍したのは晩年だけという事実に関しては結構見落とされている気がします。

 

今回のドラマ「真田丸」でも、ようやく「幸村」の名前が出てきてドラマの中でも主役らしくなってきて個人的にはテンションがMAX近くまで上がってきました。

そこで、この記事では「真田丸」においても、これから人生の集大成を見せてくれるであろう真田信繁の生涯を簡単に振り返ると共に、信繁の人気の秘密に迫ってみたいと思います。

信繁が敗軍の将にも関わらず、なぜ未だ人々に愛されているのか?

少々長い内容になりますが、読み進めながら、同時にこれまでの「真田丸」を振り返って頂けたら幸いです。

 

真田信繁(幸村)の生涯は?

ご存知の通り、2016年の大河「真田丸」は

真田信繁(幸村)がどのようにして戦国時代を生きてきたのか?

を確認しながら物語が進んで行きます。

 

真田家と言えば、忍者を駆使したり、少数の兵力で10倍以上の敵を撃退した知略の面で有名ですが、その真田家にあって、一番の武道派と言われているのが、この信繁(幸村)です。

私が大好きな「信長の野望」というゲーム内でもその武力の高さは突出していますよね(^o^)

 

少し話は脱線しますが、今回の「真田丸」では、その「信長の野望」のゲームプロデューサーのシブサワコウさんがドラマ内の勢力図などの監修をしています。

最初、ドラマのオープニングでその名前を見つけたときは驚きましたが、ドラマ内の戦国絵図がゲームそのもの感が凄く出ていて思わずニンマリしてしまいました。

これから始まる大阪の陣でも戦場マップが大活躍するでしょうから楽しみですね。

すみません、つい力が入って脱線し過ぎました。

 

話を信繁に戻しましょう。

 

信繁(幸村)は歴史的に見ても、

関ヶ原の戦いなど壮絶な時期に生きた武将の中で、もっとも世間から愛されている武将の1人

と言えます。

 

その理由は、

信繁の人望の厚さや頑なに貫いた忠誠心などが、現代までにきちんと伝わっているからこそ

ではないでしょうか。

 

そんな信繁の生涯を以下簡単に振り返っていきたいと思います。

 

○信繁誕生~本能寺の変

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1567年に真田信繁は父・昌幸の次男として誕生します。

当時の昌幸は武藤家の養子となっており、足軽大将クラスでした。

 

真田家は信繁の祖父・幸隆(幸綱)が一族を束ねていましたが、信繁誕生の頃は病気により隠居し、家督を昌幸の長兄である真田信綱に譲っていました。

 

信繁自身は、幼少期の頃から武田家の人質として甲府で暮らしていたとされています。

 

祖父の幸隆は、武田家が滅亡の道を辿るキッカケとなった長篠の戦の約1年前に病気で亡くなっていますが、武田ファンとしては幸隆があと数年生きていてくれたら…と悔やまれるところです。

それほど、この幸隆の知略を含めた武功は優れたものでした。

 

結局、1975年の長篠の戦にて、武田家は織田・徳川連合軍に破れ、このとき父・昌幸の長兄・信綱、次兄・昌輝が相次いで命を落としたことにより、昌幸が真田家を継ぐことになります。

それと同時に、真田家は上杉と北条どちらをも牽制する上で重要な拠点となる上野国岩櫃城に居城を移すことになりました。

信繁もこのタイミングで甲府から岩櫃城に移ったとされています。

今回の「真田丸」が始まったのはちょうどこの辺りからです。

 

そして1582年(信繁15歳)、織田・徳川連合軍が甲斐・信州方面に侵攻することにより、とうとう武田家は滅亡を迎えます。

 

大きな後ろ盾を失った昌幸は、究極の選択を強いられましたが、結局、一番勢いのある織田に付くのが得策と織田家に接近し所領を安堵されます。

 

ところが、同年6月に本能寺の変にて信長が没することにより、武田家の旧領を争う天正壬午の乱が勃発。

この混乱の中で、真田家も勢力拡大の機会を虎視眈々と狙っていくこととなるのです。

 

○上杉→豊臣家への人質時代~第一次上田合戦

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信濃周辺の混乱の状況の中、父・昌幸は上杉→北条→徳川→上杉と巧みに同盟相手を変え、信濃情勢の混乱期を乗り越えようとします。

その中で、結果的に真田家は北条家から沼田城の奪取に成功していますので、外交戦略を含め、昌幸の智謀の数々は信繁にとって良き勉強の場であった ことでしょう。

 

しかし、いくら沼田城が手に入ったところで、所詮真田家はまだまだ弱小。

やはり大きな後ろ盾がなければ生き残っていけません。

そこで、最終的に昌幸は上杉家に臣従することを決めます。

 

しかし、上杉はこれまで何度も戦ってきた相手。

そう簡単に受け入れられるハズがありません。

そこで昌幸は、上杉景勝の信用を得るために次男・信繁を人質に出す決断をします。

 

こうして上杉家で過ごすことになった信繁ですが、実際の上杉家での生活は人質というより客将として大事に扱われていたようです。

流石は義を重んじる家風ですね。

 

ドラマでは、上杉景勝が信繁を子供のように思っていましたよね。

個人的に凄くイメージ通りでした。

 

またアニメやマンガなどでも、信繁と景勝の側近である直江兼継の友情が描かれたりしていますが、史実上もこの上杉家での生活で深い交流があったものと思われます。

 

ところで、この上杉家への臣従は、台頭する秀吉に対抗すべく1585年に徳川と北条が同盟を結んだ時の条件がキッカケでした。

 

徳川側が同盟のために出した条件の1つに、北条家に対し

真田家が奪ったハズの沼田城を返還することが含まれていた

のです。

 

これに怒った昌幸は、このとき徳川家に付いていましたが、飲めぬ条件ということで反発し、徳川家と抗戦することを決めます。

そのため、背後を固める意味と加勢を期待して上杉への臣従を決めたのでした。

 

こうして、徳川と一戦交えることとなった真田家。

このときの戦を第一次上田合戦と呼んでいます。

 

この戦で、真田家はあの秀吉ですら勝てなかった徳川の軍勢の撃退に成功。

しかも、兵力差は10倍とも言われ、籠城した上田城は築城したばかり…という逆境の中、父・昌幸と兄・信幸は見事それを跳ね返し、徳川に堂々と土を付けました。

このとき、家康本人は出陣してませんでしたが、実際に真田と戦った家臣から、この戦で活躍した信幸の話を聞き、高く評価し、後に本多忠勝の娘である小松姫を、わざわざ自分の養女として信幸に嫁がせることとなります。

 

こうして、あの徳川が負けたという評判が広がり、

真田恐るべし!

と真田家は一目置かれる存在となったわけです。

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なお、信繁にはこの大勝利の後、徳川方の屋代氏の旧領が与えられています。

ということはこの戦で何らかの手柄を立てたハズと思ってしまいますが、実は歴史資料の中には、信繁の初陣についての情報がありません。

でも戦後の恩賞面から、この第一次上田合戦の時が初陣とする意見もあるようです。

 

もしかしたら、義に厚い上杉家のことなので、お家の一大事に信繁を一旦昌幸に返したとも考えられます。

「真田丸」でもまさにそのように描かれていましたが、個人的にはいくら客将待遇とは言え何度も苦渋を舐めてきた真田家ゆえ流石に人質を安々と手放すことはなかったのではないか?

つまりは…

信繁がこの第一次上田合戦には出陣していないという意見の方に1票入れたいと思います。

 

○小田原遠征~朝鮮の役

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小牧・長久手の戦いなどを経て、豊臣家の力は絶大なものとなりました。

そこで上杉家は豊臣家に従属することを決定します。

 

程なくして、昌幸もまた上杉家を通して豊臣家の家臣になることを決めたため、信繁は上杉家から今度は大阪城へ人質として送られることになりました。

 

信繁のその後の豊臣家に対する忠誠心を見る限り、ここでも人質というよりは客将として扱われていたのではないかと想像します。

「真田丸」では、秀吉の相談役までしていて、その後の大阪の陣への伏線として大きく描かれていますが、実際の史実でも才能ある若者を重用した秀吉ですから、この辺は「真田丸」でも上手く描かれてますね。

 

そして、その豊臣家が間に入り、真田家は1589年に家康と和睦。

以後、真田家は徳川家の余力大名という立場になりました。

 

翌1590年、国内統一を目指す豊臣にとって、唯一の抵抗勢力となった北条家を討伐すべく小田原征伐が起こります。

 

信繁は、父や兄と一緒にこの遠征に参加し、石田三成指揮下で忍城攻めに加わります。

その1ヵ月後に、今度は昌幸に対し上野国松井田城攻めの命が下り、恐らくこのときが信繁の初陣となったと思います。

あくまでも個人的な予想も兼ねての話なので間違っていたらすみません。

 

いずれにしても、この小田原遠征後、沼田城は正式に真田領として認められ、兄・信幸が城代を努めることになりました。

これは

真田家が正式に豊臣系大名として独立を果たした

という重要な意味を持つものでした。

 

北条家が滅び天下統一を達成した秀吉でしたが、翌1591年に陸奥国にて九戸政実が謀反を起こしたため、奥州征伐を決行します。

この時も信繁は、父、兄と共に出陣しました。

 

こうして、国内統一を果たした秀吉の次のターゲットは何と朝鮮でした。

 

1592年と1597年の2回に渡って、豊臣軍は朝鮮に遠征しましたが、結局思うような成果は上がってません。

この遠征では真田家は実際に朝鮮に渡ってはいませんが、肥前名護屋城までは赴いています。

 

この2度に渡る朝鮮遠征は、結局成果ゼロで終わっているため、戦後の論功行賞で大いに揉めました。

このときの豊臣恩顧の武将達への対応の悪さが、後の豊臣家没落の始まりだったと言っても過言ではないと、私は考えます。

 

さて、信繁の個人的な所に話を移すと、2度の朝鮮の役の中間である1594年、信繁は従五位下左衛門佐という官位をもらっています。

しかも、同時に豊臣性も!

 

他の豊臣性が与えられた武将のことも考慮すると、信繁はそれほど秀吉から相当気に入られていたと言えるでしょう。

恐らく、小田原遠征や奥州遠征での戦いぶりが評判になったのだと思います。

また生まれながらに持っていた人を惹きつける人望の高さも高評価されたのかもしれません。

 

兄の信幸曰く、

「物静かで決して怒ることがない…信繁こそ人の上に立つ本当の侍だ」

と評しています。

 

その兄は実直な性格が知られていますが、信繁は実直でありつつも、柔軟さも同時に持ち合わせていて、機転がすごく利くというイメージが個人的にあります。

そういう信繁の人質時代の振る舞いも、真田家の独立が正式に認められたことに少なからず貢献したのかもしれませんね。

 

いずれにしても豊臣性を授かった信繁が豊臣家の中でも一目置かれる存在となっていたのは確かなことです。

 

そしてちょうどこの頃、信繁は豊臣家の重臣である大谷吉継の娘の竹林院を正室に迎えました。

信繁はこのとき27歳前後だったとされています。

 

この婚礼によって信繁と豊臣の関係は益々深くなっていきました。

 

このまま行けばやがては

五奉行などの要職に!

と真田ファンとしては期待が高まりますが…

 

しかし!

またもや時代は思わぬ方向へ動き出します。

 

それは、2度目の朝鮮遠征中の1598年9月に秀吉が病で永眠したからです。

知らせを聞いた豊臣軍は混乱のうちに退却。

秀吉は享年61歳でした。

胃がんで亡くなったという説が有力とされています。

 

その亡くなる直前、跡継ぎの秀頼のことを心配し、裏切らないような誓書を家康はじめ諸大名に出させたり、未練がましい状態で息を引き取りました。

 

実際に天下人の最期としてはカッコ悪いものだったと言い伝えられているそうです。

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誰も成しえなかった天下統一を果たした秀吉ですが、豊臣家は決して磐石ではありませんでした。

秀吉には誰よりもそれがわかっていたのでしょう。

この豊臣家を反面教師にして、家康は後に江戸幕府の基盤を磐石なものにすることになるのです。

 

こうして、秀吉が亡くなったことで、天下太平の世に再び暗雲が立ち込め、豊臣性まで賜り、いわば将来の幹部候補とも言えた信繁の周辺も慌しくなります。

 

○関ヶ原の戦い~九度山での幽閉生活

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1600年、秀吉が亡くなってから、それまで二条城を預かっていた家康が突如大阪城入り。

その目的は、五大老筆頭という立場を利用しての豊臣政権への揺さぶりでした。

 

秀吉の後を継いだ豊臣秀頼はまだ若干7歳。

家康にとっては好機到来。

 

表向きは秀頼の家臣としてふるまうものの、やっていることは明らかに本来の権限を逸脱している…

抗議した石田三成もこのとき謹慎処分を受けます。

 

そんな家康に対し、不満を掲げる者との対立が徐々に大きくなっていき…

そして、ついに決定的な事件が発生。

それは上洛の命をなかなか聞かない会津の上杉討伐を、秀頼の命として行うことでした。

 

このタイミングで、かねてより家康の台頭を良く思わない石田三成らが家康を討つ決意を固め、諸将に向けて密使を出します。

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その密使は当然真田家へも来たのですが、このとき真田軍は上杉討伐軍に加わって関東にいました。

もはや日本中が東軍と西軍の真っ二つに割れ、かつてないほどの大きな戦になることは必至。

 

しかし、ここで困るのが真田親子それぞれの微妙な立場です。

 

結局、信繁の父・昌幸は、真田家の存亡を第一に考え、豊臣方との縁がある自らと信繁は西軍に、兄・信幸は家康の養女(本多忠勝の娘)を正室にしていることもあり、そのまま東軍に残るという苦汁の決断をすることに。

このときのことを後に人々は「犬伏の別れ」と呼んでいます。

 

昌幸と信繁も徳川に味方すれば…と思ってしまいますが、昌幸は妻が石田三成の妻と姉妹関係、信繁も西方の重臣である大谷吉継の娘を妻としている関係で、二手に分かれざるを得なかったのだと思われます。

 

この中で、一番悩んだのが信繁の兄・信幸ではないでしょうか。

実直な信幸にしてみたら、真田家はあくまでも豊臣家の家臣。

豊臣への忠誠を貫くことを選ぶ方が信幸らしいからです。

 

しかし、父からの命令はそれに反するもの。

 

しかも、実の父と弟を敵に回すのですから、私が信幸の立場だったら、もはや正気を保っていられないと思います。

 

こうして、関ヶ原合戦を機にお家が2分してしまう真田家。

 

武田家滅亡直後の立ち回りから想像すると、今回も静観しながらどっちつかずで行けば良いのに…と思ってしまいますが、昌幸が家康との対峙を決めた裏には、武田時代からの「徳川は敵」という考えがあるように思いますね。

それにしても…想像しただけで過酷な選択です。

 

 

戦国ファンの立場からすると、関ヶ原の決戦場で、昌幸&信繁の大活躍が見たいと思ってしまいますが、西軍側の真田家の役目は徳川秀忠率いる別働隊の足止めでした。

 

一方で、兄・信幸の役目は、その秀忠の補佐。

秀忠軍の行軍ルート上に真田領があることから土地勘を考慮されてというのは表向き。

裏では信幸の忠誠心を試すため敢えてぶつけたと言われています。

 

信幸はそんな東軍の中での立場を気にしたのか、名前を信幸→信之に改め誠意と決意を表していました。

 

こうして第二次上田合戦が勃発。

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この合戦の前に、信幸は父に対し、東軍に与するよう説得に行きますが、昌幸はのらりくらりとこれを交わします。

 

時間稼ぎが目標だったのもあり、一旦は降伏を受入れるフリをしつつ、実際には戦の準備を万全にしていました。

これに怒った秀忠は、自身の目的を考えれば真田家など無視して素通りすればよいものを、上田城などすぐに落とせると、戦を仕掛けます。

 

しかし、この状況こそが昌幸の思うツボ。

 

術中にハマってしまった秀忠軍は、まず戸石(砥石)城を守っていた信繁を兄・信幸に攻めさせます。

東軍と西軍に別れているとは言え、実際にぶつかるのは真田の兵です。

そこで信之は真田兵の消耗を避けるため、信繁に開場要求の使者を送ります。

 

信繁はその意味をよく理解し、これに応じ上田城に戻ることに。

ここは事前の手はずどおりなのかわかりませんが、信繁は兄と戦わなくて済むし、自らが退くことで、信之の手柄にもなる。

更に奪還される可能性があるので、信之がそのまま戸石城の守りに着く…結果的に真田家にとって最善の状況となります。

 

結果的に上田城攻めには、信之が加わらない結果になり、昌幸・信繁親子は安心して戦うことができる状況に…

結果、徳川軍を翻弄し、見事足止めに成功。

秀忠軍は上田城攻めを諦めて小諸城に撤退。

こうして第二次上田合戦はまたしても真田家の勝利におわります。

 

秀忠軍はその後、急いで関ヶ原合戦場に向かうものの、悪天候なども重なり結果的に合戦には間に合いませんでした。

西軍の一員として十分な働きをした昌幸・信繁親子でしたが、肝心の関が原合戦では東軍が勝利してしまい、虚しい結果となってしまいます。

 

関ヶ原合戦での西軍敗退の情報を入手後も、昌幸は上田城に立て籠もり、徹底抗戦の構えを続けました。

それもただの籠城ではなく、信繁は近場の葛尾城へ何度か奇襲攻撃を仕掛けています。

 

ところが、やはり世の情勢には逆らえず、昌幸と信繁は徳川方の降伏勧告に渋々応じることに。

 

昌幸と信繁には、上田城没収と切腹が命じられたものの、信之と本多忠勝の必死の懇願でなんとか流罪ということになり、1600年の12月にわずかな供をつれて高野山へ流罪となりました。

 

昌幸は正室を上田に残しましたが、信繁は正室を伴い移動します。

もしかして、正室が身ごもっていたためなのか?かもしれませんが、当時高野山は女人禁制だったらしく、ほどなくして九度山に移ることとなります。

 

○九度山での幽閉生活~大阪の冬の陣

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九度山での生活は、質素だったものの金銭的に厳しかったらしく、兄・信之やその正室・小松姫からも食料や金銭の援助がありました。

一度は敵味方に別れたものの、こういうやりとりが続くというのは、やはり真田家の結束の固さなのでしょうね。

 

金銭的には厳しい生活でしたが、外出も許され、しかも家臣達も側で家を建てることを許されるなど、待遇は決して悪くはないものだったようです。

 

数年後、あっさり大阪入りできた信繁を見ると、

信繁はここでも周りの住人達の心をしっかり掴んでいたのではないか?

と想像できます。

 

家康は1603年に江戸幕府を開きますが、昌幸は

 

「豊臣家が存続する限り、必ずまた家康は動く」

 

と予測していました。

 

そして家康が実際に動いた際の策を練っていた昌幸でしたが、1611年病でその生涯を閉じることに。

享年65歳だったと言われています。

その翌年、信繁は出家して好白と名乗りました。

 

父の背中を常に見続けてきた信繁にとって、相当大きなショックだったことが伺えます。

 

それから2年後の1614年、昌幸の予測どおり、遂に家康が豊臣家に引導を渡すために動き出します。

そして、大阪冬の陣(1614年10~12月)、夏の陣(1615年4~5月)が起こったわけですが、信繁の見せ場は正にここからとなるのです。

 

秀吉が生きていた頃は豊臣家の中で一目置かれていた信繁ですが、全国的に武功を上げた父の影に隠れていたことと、関ヶ原やその後の数年で若い信繁を知る武将達の多くが散っており、全国的にはほぼ無名であったことは間違いありません。

 

冷静に考えてみると、最初の大阪の冬の陣において信繁が大阪城入りしたときは、すでに47~48歳

しかも、出家しているため坊主頭。

 

歯も何本か抜け落ちていたという記録もあるので、我々が抱く信繁像からは程遠い容姿だったことは容易に想像できます。

 

ドラマではこの一連のことを周りをたばかるためにワザと老人の格好に変奏して入城するという上手い演出をしてました。

史実どおり、最大の見せ場でヨボヨボの姿だったら話になりません。

さすが、三谷さんだなぁ~と感心しました。

 

ただ、外見上はそんな頼りない感じの信繁でしたが、

父・昌幸や兄・信之と共に積み重ねた経験が一級品

なのは確か。

 

そして、

信繁が大阪城入りした噂を聞いて、旧臣たちが上田から大勢駆けつけるという人望もまさに一級品

でした。

それら全てが、信繁の大阪の陣での大活躍に繋がって行くのです。

 

こうして向かえた大阪の陣

まず冬の陣の際は、秀吉が築城した大阪城の防御力に絶対的な自信のある豊臣家臣達は当然籠城策を採用。

これに対し、信繁は昌幸が遺言に残したとおり、戦い易い地形でまずは野戦を仕掛け、徳川軍の戦力を少しづつ削っていく強攻策を主張します。

 

この信繁案に何人かは協調したのですが、大多数の籠城策を押しのけるほどには至りませんでした。

それもそのはず。。

 

前述したとおり、信繁の名はまだそこまで有名ではなく、信繁を知っている武将達の多くは関ヶ原で散ってしまっていたからです。

父の遺言を守れなかった信繁はさぞ歯がゆかったことでしょう。

 

信繁は仕方ナシに引き下がりましたが、代わりに出城を築き上げます。

 

大阪城を攻める際に地形的に大軍の陣を敷けるのは南側だけ。

 

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その南から数で攻められたら流石の大阪城も脆い。

信繁はそんな大阪城の唯一の弱点と言える場所の防御が必須と考え、敢えて攻撃が集中するであろうこの南口を守ることに決めたのです。

 

そしてこの出城こそが、後に真田丸と呼ばれるようになるのでした。

 

大阪の陣開戦前、豊臣方の多くの武将達は、敢えて強固な大阪城の外側に築いたこの真田丸に対し、

 

「寝返る準備をしているのか?」

 

とその反応は冷ややかだったと言います。

まあ、兄が徳川方に居るのですからそう思われても仕方ないですよね。

 

ちなみにその兄・信之は病気で大阪の陣には出陣せず、実際には信之の子供たちが参戦していました。

その甥っ子たちの立場を考え、信繁は六文銭の旗を使わなかったそうです。

こういう気配りができるところが、信繁人気の秘密と言えるでしょう。

 

そして、いざ開戦!

 

信繁は父・昌幸の第二次上田合戦を再現するかのように、敵を挑発しわざと攻めさせ待ち構えた鉄砲で確実に敵を仕留めていきます。

大軍が故に身動きが取れず混乱に陥った徳川軍を見るや、ここぞとばかりに今度は撃って出る。

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真田丸攻防での損害はたったの24時間で1万人以上にもなりました。

 

たまらず家康は、この真田丸に向けて、家臣となっていた真田信尹(信繁の叔父)を派遣し、信濃一国を与えるから寝返れと諜略を仕掛けてきますが、信繁はこれを拒否。

私欲より義を貫く姿勢には心打たれます。

 

思うに、信繁は家康に勝つことを前提としつつも、自身の散る場所を求めて大阪入りしたのではないでしょうか。

覚悟ができているため、いまさら私欲なんてどうでも良いですよね。

 

今回の大河ドラマ・真田丸で、信繁はこの叔父のことを大変尊敬している姿が強調されています。

この諜略の様子が、大河ではどのように描かれるか今から楽しみです。

 

さて、真田丸を一向に落とせないと悟った家康は、大砲を打ち込んで直接本丸にいる秀頼やその母・淀君にプレッシャーを掛け続けました。

この鳴り止まない号砲に、淀君が参ってしまい、それまで和議を断固拒否していた秀頼を説得する形でこの冬の陣は終焉を迎えました。

 

そしてその和議の条件は、大阪城の堀を埋めるなど豊臣方に圧倒的に不利な条件でした。

 

結果的に真田丸は20万の大軍を跳ね除けましたが、勝負には勝てず…

 

関ヶ原に続き、信繁にとってはまたしても不本意な結果。

 

「局地的ではあるが、真田丸攻防戦では勝っていた!」

 

と、さぞ腹の底では煮えくり返っていたことでしょう。

 

家康を倒し尊敬する父・昌幸を越えたかった…

信繁のそんな思いが伝わってくる気がします。

 

○大阪夏の陣~そして伝説に!

結局、形式上は引き分けに終わった冬の陣でしたが、和議の内容は圧倒的に豊臣に不利な内容でした。

家康は真っ先に大阪城の外堀と真田丸の解体に着手し、更には外堀を埋める業を手伝うふりをして内堀までも埋めてしまいます。

これにより、大阪城は天守閣のみの情けない姿に…

 

しかも!

秀頼への大阪からの国替え要求や、集めた浪人衆の追放など、まさに言いたい放題。

これに豊臣方が激しく抵抗したことにより、1615年4月、ついに大阪夏の陣が開戦。

 

冬の陣の後、息子大助らと大阪城に留まっていた信繁は、故郷にいる姉や親戚らに手紙を出したのですが、結果的にその手紙は遺書のようになってしまいました。

今回の戦は、頼みの大阪城が使いものにならないため、豊臣方は撃って出るしかありません。

ところが、このときの兵力は豊臣7万に対し、徳川方は15万5千と2倍以上の差がありました。

次々と倒される豊臣方の名将たち。

 

そんな中、信繁が実際に参戦したのは、5月6日の「道明寺の合戦」からです。

敵の内通者がいたことと深い霧のため戦場への到着が遅れてしまった信繁。

これにより後藤又兵衛らの命を救えませんでした。

 

責任を感じ、その場で果てようとしましたが、毛利勝永らに説得され一旦大阪城に戻り秀頼公の出馬を仰ぎ兵の士気を高めることに。

 

しかしこのとき、徳川軍の流言だったのか、信繁にはスパイ疑惑が出ていたんです。

なかなか戦場に現れない秀頼公。

そこで、息子の大助を人質として大阪城に預けまでして秀頼公の出陣を懇願しますが、無能な側近たちに却下されてしまいます。

 

仕方なく、作戦を立て直す豊臣軍。

信繁は徳川軍が天王寺方面から攻めてくると予想し、茶臼山に布陣。

 

すると予想通り、家康は信繁の正面に本陣を敷きます。

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そしてその本陣の前には越前松平軍1万3千のみ。

真田軍は3千程度でしたが、このとき、信繁の目には家康の首しか見えてなかったことでしょう。

 

戦況を見ながら機をみて突撃…

と毛利勝永や明石全登と共に3手に別れて奇襲の策を練っていました。

 

しかし!

焦った毛利隊の発砲のせいで、無謀な突撃をするしかない状況に陥ります。

 

それでも、巧みに影武者を使って松平軍を翻弄しながら、家康本陣に向かって攻撃し本陣までたどり着くこと実に3度

そして、家康の本陣の旗である馬印を倒しあと一歩のところまで迫ります。

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家康にとって馬印を倒されたのは、あの武田信玄に惨敗したとき以来2度目。

もうダメだと観念した家康は切腹しようとしますが、側近らに制止されました。

豊臣と徳川の決定的な差はこの側近たちの能力だと断言できます。

 

一方では劣勢の中、自軍の士気よりも、秀頼1人の命を優先させた判断、またもう一方では、鬼神のごとく迫る真田軍を見て、戦況を冷静に見て、混乱せず時間を掛ければ勝てるという的確な判断。

そんな側近たちの力が最後まで響いた感じです。

 

3度の攻撃も、やはりそこは3千しかいない真田軍。

突撃の勢いは次第に衰え、撤退を余儀なくされます。

 

そして天王寺近くの安居神社まで退き、傷の手当をしながらしばしの休息をしていたところを松平軍の槍に遭い最期を遂げました。

享年48歳。

 

人質生活が長く、晩年まで目立たない存在でしたが、最期の最期での大奮闘。

大きな敵にひるまず向かっていった姿は、まさに武士が憧れる武士です。

 

没後400年が経って尚も、我々を魅了する英雄・真田信繁。

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こうやって信繁に想いを馳せられるのも、家康の「敵ながらアッパレ」という寛大さがあってこそだと思います。

記録より記憶に残る生き方。

 

私もできれば、そんな生き方をしてみたいものです。

 

以上、信繁の生涯について駆け足でお送りしましたが如何だったでしょうか?

個人的に書きたいことが多すぎて長々と綴ってしまいました。

 

これからクライマックスを迎える真田丸のネタバレ的な内容も含まれていて申し訳ありませんが、これまでの真田丸を振り返りながら何度も読み返して頂けると嬉しいです。

 

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「真田信繁の生涯」まとめ

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昨年のラグビーW杯での大金星しかり、リオ五輪での選手達の奮闘しかり、我々日本人は特に、下克上というものに、不思議と憧れます。

それもこれも、信繁のような英雄の活躍があまりにもカッコよすぎるためです。

 

凡人には決して真似できない生き方ですが、せめてその勇気と武士としての忠誠やあきらない精神は大いに参考にさせてもらいですね。

 

そして、同時にこれから先の世代にも、そんな英雄たちの話を大事に伝えて行きたいと思います。

 

以上、最後までお読み頂きありがとうございました。

 

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