真田信繁(幸村)の子孫たちはどうなった?家系図でチェック!

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人生の最期の最期で武士として大きなインパクトを残した真田信繁(幸村)

 

家康に“敵ながらアッパレ”と言わしめた壮絶な戦いぶりは、まさに英雄と呼ぶに相応しい戦国武将の1人です。

大阪夏の陣で美しく散った信繁ですが、長男・真田幸昌(大助)らも豊臣秀頼公と共に果てているため、

その子孫に関してはこの大阪の陣できっと絶えてしまったのだろう

というのが多くの人の認識ではないでしょうか?

 

一方で関ヶ原からずっと徳川方に与した兄・信之に関しては、江戸時代になっても健在だったのは有名な話で、信之直系の血筋は今も続いているだろうと予測が立ちます。

よって、私は今まで…真田家の子孫が現代まで続いているとするならば、信之直系の子孫だろうと思っておりました。

 

がしかし、信繁自身にも生存説など伝説化している部分があり、

ひょっとしたら?

という期待も少なからずあります。

 

 

信繁直系の子孫たちの血筋は本当に絶えてしまったのだろうか?

この件については、歴史上のロマンとして、むしろあやふやな方がいいのかもしれません。

 

ところが、何年か前に巨人や横浜、ヤクルトなどで活躍した真田裕貴投手が、信繁(幸村)の子孫ではないかと話題になったことがありました。

巨人入団時のキャッチフレーズでも、幸村の末裔とうたっていて、当時個人的には噂の域を出ない話だなという印象が強かったのを覚えています。

 

しかし今、真田信繁が2016年の大河ドラマ「真田丸」で大いに話題になっていることと、そのドラマで個人的には

長澤まさみさん演じるキリと信繁との間に本当に子供は生まれなかったの?

と史実を知りたくなったので、詳しく調べてみることにしました。

この記事ではその調べた結果をシェアしていきたいと思います。

 

で…、もったいぶらずにいきなり結論から言うと…

信繁直系の子孫は今も健在でした!

 

 

「仙台真田家の14代目当主である真田徹さん」が、その方です。

 

この徹さんは、1948年生まれの67歳。

仙台市でお生まれになられました。

福島大学を卒業し、建設会社に勤めていたそうですが、2年前に定年退社後、現在は都内で暮らしているようです。

信繁直系の真田家としては

信繁から数えて第14代目の当主

となります。

 

現在は、上田市観光大使や歴史研究家として、

「真田幸村の真実の姿を伝える活動」

を行っているとのこと。

真田ファンにとっては凄く嬉しい情報ですよね。

 

でも…

・仙台真田家って何?

・故郷上田ではなく、どうして仙台?

と思った方も多いのではないでしょうか。

 

その謎については、これから紐解いていきますので、信繁の子孫の行く末が気になる方は、どうぞ最後まで読み進めてみてください。

 

信繁は子だくさんだった!家系図をチェック!

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信繁の奥方に関しては、いろいろ謎の部分が多のですが、「正室1人と側室が4人」居たとされています。

それら5人の奥方との間に授かった子供は全部で

11人(4男7女)。

 

この中の

次男・大八が仙台に渡って生き延びて、現在の徹さんまで血筋が続いている

とのことです。

私が無知なだけだったかもしれませんが、この信繁直系の子孫がいるという情報は、今まで全く知りませんでした。

大河ドラマで信繁を主人公にするということになって初めて出てきた情報のように感じます。

 

 

信繁の血が一体なぜ仙台に伝わったのか?

その情報を整理するにあたり、まずは信繁を中心とした家系図をチェックしてみましょう!

 

ただ全部を1つに表すとすごく大きな家系図になってしまい見難いため、ここではより見やすいように各奥方ごとに示していきます。

 

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大河ドラマ「真田丸」では【信繁・きり・梅の三角関係】が話題になっていましたが、史実では結果的に、信繁はこの2人と結婚するものの、それぞれ側室として迎えています。

恐らく、信繁の最初の子供を産んだ梅(名前と人物については諸説あり)との結婚は身分が違い過ぎて側室という形になったと思われます。

 

ということは逆に、「真田丸」で描かれていたのと同じで信繁は

この「梅」とは恋愛結婚だった

のではないでしょうか。

政略結婚が多かった当時とすれば異例なことだけど素敵なことですよね。

 

梅は九度山への幽閉生活には同行していたかどうか詳しい資料はありませんが、ドラマのように戦で命を落としたという事実も残念ながら確認できませんでした。

憧れの信繁と結婚して長女を授かったものの、その後は身分をわきまえ御正室などへ終始配慮しながらの生活だった…と私は想像しています。

よって関ヶ原の後、敢えて上田に残り、この長女を立派に育て上げることを優先させたのではないか?

そんな気がしてなりません。

 

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そして、真田丸ではその梅の幼なじみという設定の「きり」は、梅に気を遣って正室ではなく側室という立場を取ったように思います。

ただ、「きり」に関しては次女と三女を産んだ後も、常に信繁の一番近いところに居たようです。

真田丸でも

生涯を共にしたパートナー

う設定となっています。

 

この「きり」も、実は名前が不詳となっているのですが、その名前から勘ぐると

霧隠才蔵のモデルは女だったという説

もあることから、大阪の陣では実際に一緒に戦ったのではないか?と私は考えています。

 

そしてこれは願望に近いのですが、「真田丸」では幽閉生活中に、信繁か佐助がこの「きり」に対して修行をつけてやるシーンなんかあれば面白いなぁ~と勝手に想像していたのですが、これは流石に少し想像が過ぎたようです。

 

「きり」が産んだ【三女・阿梅】に関しては実際に

大阪の陣の戦場に出ていた

という話も伝わっているので、どうしても母娘ともども戦場で活躍したのではないかと考えてしまいました。

歴史を忠実に描いているという今回の大河ドラマですが、そもそも現在のところ、きりには子供はいませんので、逆にドラマ版「きり」の最後がどのように描かれるのか楽しみの1つですね。

 

家系図から他に読み取れることとしては、高野山への幽閉が決まったときに、高野山が女人禁制だったのにも関わらず信繁は

なぜ正室の「竹林院」らを同行させたのか?

の答えが自ずとわかります。

 

  • 竹林院は九度山で立て続けに5人の子供を産んでいる。
  • 生活が苦しかったハズの九度山生活で3番目の側室として三好秀次の娘の隆済院を迎えてる。

以上、2点から判断するに、真田の名を絶やさないように

より多くの子孫を残そうとした。

 

これしか考えられません。

 

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特に正室の「竹林院」は九度山に来てから立て続けに産んでますから、正に江戸初期のビックマザーだったと言えます。

ドラマでは嫉妬の塊みたいな感じですが、実際には側室の子もみんな平等にとても可愛がったようです。

信繁を名実ともに影で支えたデキた女房だったところは、さすが名将・大谷吉継の血を引いていますよね。

 

 

3番目の側室である「隆済院」も大阪の陣前後で2人の子供を産んでますし、そういう状況から想像するに、相当必死だったことが伺い知ることができます。

まあ子だくさんなのは当時では当たり前だったのかもしれませんが…

 

そして、最後の4番目の側室に関しては、実は

信繁が大阪の陣の後に四国に逃れたという生存説ありきの話

になります。

可能性として念のため載せておきましたが、単なる仮説に過ぎないということ、ご容赦ください。

 

ただ、この石田之親の子孫が

明治以降に真田姓に復した

とする伝承があることだけお伝えしておきます。

 

 

さて、それでは次に、この10人の子供たち(之親以外)が

大阪の陣の後、どうなったのか?

について触れていきましょう。

 

信繁の子供たちそれぞれの生涯

それでは早速ですが、信繁の10人の子供達の行く末について、生まれた順番にまとめていきます。(信繁は大阪の陣で散ったので生存説ありきの之親は除く)

 

・長女「阿菊(すへ)」

母は堀田興重(作兵衛)の娘(妹という説もあり)の「梅」。

信繁最初の子です。

詳しい生年月日は不詳ですが生まれたのは上田で間違いありません。

 

この阿菊は、九度山には同行せず、母・梅の兄弟の養子となり、小県郡長掘宿の郷士である石合十蔵重定に嫁ぎました。

その後の詳細についての資料は残っていません。

 

・次女「於市」

母は真田家臣である高梨内記の娘「きり(名前には諸説あり)」。

この於市も上田で生まれます。

母と共に九度山にも同行するものの、その九度山で若くして病気により亡くなりました。

 

・三女「阿梅」

母は高梨内記の娘「きり」。(実は正室・竹林院の娘とする説もあり。)

 

1604年に九度山で生またとされていますが、菩提寺である当信寺の位牌には享年83とあり、そこから逆算すると…1599年の上田生まれとなるハズです。

なので必然的に竹林院母親説はなくなるのでは?と個人的には思ってます。

大阪の陣の際は母と共に大阪城入り。

 

奥方・娘の中で唯一、最後まで父の側で世話をした

とされています。

「刀を持って戦場にも出ていた」という説もあり。

大阪城が落城する前に脱出し、伊達家臣の片倉重長に預けられる。

 

この経緯にも諸説あって、代表的なものが…

  • 戦場で信繁の戦いを目の当たりにした重長が自ら信繁の子を求めた説
  • 大阪落城後に身分を名乗らずに投稿した説
  • 信繁が殿を努めた道明寺の戦いで伊達軍と対峙した際に重長を見込んで託した説

という3つの説です。

関連書物を見るとどうやら2番目の投降説が有力で、それを片倉家の武名にしたいために人々が都合よく解釈したことのようです。

 

片倉家と言えば、伊達家の重臣ですから戦国ロマン好きからすればやや残念な話ですね。

この「阿梅」はその後白石城で過ごし、最終的には重長の継室となります。

 

この輿入れのとき、信繁の姉婿の小山田茂誠の養女となってから嫁いだとも言われていて、信繁の娘という身分を隠すためにいろいろ工作していたようです。

そして後に彼女を頼ってくることになる大八と阿昌蒲と共に片倉家で一生を過ごします。

 

どうやら、子供には恵まれなかったようです。

 

阿梅は白石城下に月心院を建立して父の菩提を弔い、さらに当信寺で父母の供養を行うなど親孝行の一面が残されています。

後に泰陽院と名乗り、1681年に享年83歳で亡くなりました。

 

・四女「あくり(あぐり)」

母は大谷吉継の娘である「竹林院」。

年齢は不明ですが、九度山で生まれたのは間違いありません。

個人的には高野山に幽閉になる際に、この四女を身篭っていたのではないか?と想像しています。

大阪の陣では母と共に隠れていたところを見つかり、京都へ連行されます。

 

そこで母共々無罪放免となり、信繁の妹の嫁ぎ先であった滝川一積(滝川一益の孫)の養女に。

その後、蒲生郷喜へ嫁ぎます。

 

ところが、滝川家も蒲生家も勝手に真田の娘を養子とし婚姻したとして改易されてしまうことに。

蒲生家が断絶した後は日向・延岡に落ち延びたと言われていますが、落ち延びた先での様子は不明です。

 

・長男「真田幸昌(大助)」

母は正室「竹林院」。

九度山で生まれるが生まれた時期は実は定かではありません。

大阪の陣では父とともに活躍。

最後、大阪夏の陣で豊臣秀頼公と共に自刃します。

 

年齢は13~15歳だったとされており、まだ若いため最後は秀頼の側近達に大阪城脱出を打診されたそうです。

しかし、大助は真田家の長男。

主君と共に果てる決意は固く、その忠誠心が父・信繁の活躍と共に称えられています。

 

この大助にも実は各地で生存説があったり、大助が逃した秀頼の墓が鹿児島市の谷山に残されているなどその最期に関しては諸説あり。

現在の大阪城の秀頼自害の地に建っている地蔵には淀君や側近・大野治長らとともにその名が刻まれています。

 

・五女「なほ(御田姫、顕性院)」

母は豊臣秀次の娘である「隆清院」。

1604年に九度山にて生まれます。

信繁が大阪城入りしたときに母と一緒に大阪城下にいたものの、夏の陣の2ヶ月前に妊娠中だった母と共に京に逃れます。

 

始めは秀吉の姉である日秀尼を頼ったものの、大阪落城後に残党狩りから逃れるため、母は自分の姉を頼り梅小路家へ、自分は母と別行動を取ります。

あちこち転々としながら逃れていたのですが、ついに捕まって江戸に送られました。

そこで、伯父にあたる信之に助けられ大奥で女中として3年間働いたのち京に帰ることを許されました。

 

その後、佐竹義宣に仕えることになり、そこで義宣に出自がバレるものの逆に守られ、その弟である岩城宣隆の側室となります

 

嫡男・岩城重隆を出産し、夫・宣隆が亀田藩(秋田県由利本庄市)の藩主になると正室となり、嫡男・重隆を自らの手で厳しく教育したと伝えられています。

 

さらには、弟である三男・幸信を呼んで亀田藩に仕官させ、自身の猶子として育てました。

※猶子(ゆうし)とは…

兄弟や親戚と親子関係を結ぶこと。

養子とは違い、子供の姓が変わらなかったり、親は単なる後見人であるなど絆としては弱いそうです。

 

最期は1635年、江戸の亀田藩邸にて享年32歳という若さで亡くなりました。

 

・六女「阿昌蒲」

母は「竹林院」。

生年は不明ですが、九度山にて生まれました。

 

大阪の陣の後は姉・阿梅や妹・おかねと共に片倉家の白石城に身を寄せます。

 

その後、青木次郎右衛門と結婚したものの、最終的には伊達政宗の家臣・田村(片倉)定広と再婚します。

1664年に亡くなったとされており子供が居たのかは不明です。

ただ、そのお墓は白石市の田村家の墓所にあるとのこと。

夫・定広と一緒に眠っているそうです。

 

・七女「おかね」

阿昌蒲と同じく生年は不明のものの、母は正室「竹林院」で九度山で生まれたことは間違いありません。

大阪落城したときに姉である阿梅、阿昌蒲と共に白石城に逃れ、片倉家に身を置きます。

 

しかしその後、石田三成の娘婿とされる石川貞清(宗休)に嫁ぐことに。

 

この石川貞清は商人として成功し、竹林院を生涯に渡って援助しました。

 

子供が居たのかは定かではないものの、その子孫は商人となったとされているので、子供が数人いたことは間違いないでしょう。

夫の貞清は1626年に亡くなっていていますので、おかねがその後女手1つで子供たちを育てたものと思われます。

 

おかねは1657年頃に亡くなったとされてますが、お墓の場所など詳しいことは何1つ残されてません。

 

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・次男「真田守信(大八)【仙台藩主・片倉守信】」

1612年に九度山で生まれます。

母は正室「竹林院」。

 

大阪の陣で父と兄が散った後、姉・阿梅らと共に片倉重長に引き取られました。

白石城で育ち、28歳の時に仙台藩(伊達家)に仕官。

その際に、信繁の子孫ではないか?と疑われたために【片倉守信】と改名。

 

生き延びることとは言え、さぞ悔しかったことでしょう。

さらに疑惑を晴らすために

真田信尹の子と偽った

そうです。

 

以後、仙台藩士として300石を与えられています。

 

この大八は誰と結婚したかの記録が無いのですが、嫡男・辰信が家督を継ぎました。

 

その7代後の子孫である「真田幸歓」の代で真田姓を名乗り、以後仙台真田家として現代までその血筋はしっかり引き継がれています。

 

ということで、この大八が

仙台真田家初代当主

となっているのです。

 

大八自身は1670年10月30日に享年59歳で生涯を閉じました。

 

・三男「三好幸信」

母は側室「隆清院」。

信繁が大阪の陣で散ったその2ヶ月後に京都で生まれます。(1615年7月14日)

 

真田姓を名乗れなくて、祖父である豊臣秀次の旧姓三好左次郎を名乗りました。

その後、姉・御田姫に引きとられ元服し、三好幸信と改名。

しっかり「幸」の字を引き継ぎます。

 

そして、姉・御田姫の猶子となり猶父である岩城宣隆に使え出羽・亀田藩士にて380石を与えられました。

 

1667年に享年53歳で亡くなっています。

 

正室が誰かまでは調べられませんでしたが、子である隆長が家督を継ぎました。

少し前に、

秋田に真田家の墓が!

というニュースを耳にしましたが、その墓はこの幸信だったわけです。

 

現在、この秋田真田家が続いているのかはわかっていません。

仙台真田家と違って、その血筋でも表舞台に出ていないか、または目ぼしい当主と呼べる人がいないのか…のどちらかであると思われます。

 

 

「真田信繁の子孫」まとめ

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以上、駆け足ですが、【真田信繁(幸村)の子孫たち】についてまとめてきました。

 

真田ファンからすれば、信繁の血筋が今もちゃんと続いている事実が嬉しいと同時に、

何だかその偉大な英雄の存在を今までより少し近く感じるようになった気になれました。

 

ただ、歴史書などについては、信憑性のない事が多いことも事実。

この記事では「大八」が生きているという資料を元にまとめていますが、「大八」が大阪の陣の際に早逝したと主張する意見もあります。

でも、「幸村の子孫が生きている」というロマンに個人的には魅力を感じ、それ前提の資料を元に書きました。

なので、個人的願望も入った記事であることをご了承ください。

 

 

事実はどうであれ今も続く、「第14代仙台真田家・徹さん」は今後も偉大な先祖たちの功績を繋いでいくことでしょう。

こうやって、記事にまとめるのことがその継承にわずかながら尽力できたら嬉しい限りです。

 

今回の「真田丸」はこの子孫たち(信之直系の子孫も含む)から見ても

真田家をこんな風に表現してくれて嬉しい

と感想をもらしているそうです。

 

残りわずかではありますが、そんな大作をリアルタイムで楽しめることに改めて感謝です!

 

以上、最後までお読み頂きありがとうございました。

 

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